2013年10月4日金曜日

大学院時代〜大学院中退

ギリシャへ
必死に勉強して大学院に入ったものの、その先の進路に希望をもてず、かといって他の進路がない…という状態の私に、一時的に海外で過ごすという選択肢を与えてくれた指導教官の小林先生には、本当に申し訳なかったですが、帰国したら大学院は辞めることをほとんど決めていました。

そこで、飛行機はオープンチケットを手に入れ、その合宿が始まるずいぶん前にギリシャ入りすることにし、合宿後も長く滞在しました。帰国したら退学して古着屋とかやれたらいいなぁなんてぼんやりしていたところ、アテネでひとりの男性に出会いました。それが後に、今15歳になる子どもの父親となる人なのですが、そのときには、日本での生活に希望がもてなかったので、ギリシャで結婚して子どもを産むという人生の展開がとてもリアルで手応えのあるものに思え、唐突ですが、結婚してギリシャで暮らそうと決めました。

当時24歳、結婚というものがどういうものか、よく考えもせず決断した自分を今からみると本当に笑えないほど恐ろしいです。当然、日本にいる両親は、そんな急展開を許すはずもなく大反対。でも、そのときの私にとって、この決断は、日本で違和感を感じながら未来の見えない生活を送るよりもずっとリアリティがあり、誰かと一緒になって家族をもつということがとても尊いことに思えました。また、自分のからだをつかって妊娠・出産することは、からだオタクの自分にとって、どんな研究よりも興味深く、やってみたい、という気持ちのほうが、不安よりもずっと勝ってしまいました。今だったら、そんな自分を、世間知らずで甘い!と呆れますが、そのときは、守るものもなく、その道を信じて疑いませんでした。合宿を終え、その人としばらく過ごし、妊娠しました。

出産、育児は甘くなかった

いったん帰国し、出産は日本ですることにしました。そのときは出産、育児を甘く考えていて、落ち着いたらギリシャに帰ろう、くらいに考えていました。しかし現実は甘くなかった。出産が、こんなにも体にダメージを与えるなんて、そして、新生児の世話が、こんなに手がかかり、睡眠すらろくにとれない生活になってしまうなんて…。ボロボロの体をひきずりながら、まだ自分では何もできない細くてふにゃふにゃな新生児を抱え、傷ついた会陰と、擦り切れた乳首の痛みに悲鳴をあげていました。

助けてくれた友人たちは、私が学部時代からつきあいのあったシングルマザーや、踊りを一緒にやっていた仲間でした。産褥期は台所に立ったりせずに床について休むことが必要だということを知っていた友人は、交替でうちにご飯をつくりにきてくれて、洗濯や新生児の沐浴も手伝ってくれました。大学院は、結局、中退しました。

本調子でないからだをひきずりながら、赤ちゃんの生活リズムに翻弄される毎日のなかで、ギリシャにいる子どもの父親のことは、思い出す余裕もなくなり、かかってくる電話も煩わしく感じるようになってきました。一番大変な時期を共有できなかったことで決定的に自分の気持ちが離れてしまいギリシャで生活するというビジョンもリアリティを失っていきました。

助けてくれる友達や赤ん坊の成長に救われる、その一方で、結婚を約束したのに気持ちが離れてしまったことの罪悪感で日々葛藤していました。休日に外出すれば、仲のよさそうなカップルと赤ちゃんの3人家族ばかりが目につき、母子が集まる健診や予防接種にでかければ、赤ちゃんを連れて来ている母親たちの薬指に光る結婚指輪ばかりが目につきました。自分以外のすべての人が、順風満帆にそして正しく生きているように見えました。

そんな、ただでさえ心がモヤモヤした状態であったのに加えて、産後の心身特有のしんどさがありました。出産によるダメージと、睡眠不足や授乳や抱っこによる体への負担により、常に体が不調な状態でいると、精神的にも落ち込みやすくなることを自覚しました。

そこで、まずは、この体が元気にならないと!ということで、産後のサービスを探したのですが、これが見事に、ない。出産前は、やれ健診だ、やれ母親学級だと、出向く機会のあった病院や保健センターも、いざ子どもが産まれたら、乳児健診、予防接種など、すべて子ども対象なのです。乳児を健診に連れて来る母親の健康については、だれも面倒をみないという現実を知りました。

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